「政治家 橋本龍太郎」
文藝春秋社
『橋本組』の妹分として
「橋本龍太郎」という名を知ったのは、昭38年(1963)年のことだった。小渕恵三、橋本龍太郎という26歳の最年少代議士が二人も初当選したので、芸能界の有志が集まってこれから応援しようということになったのだ。言い出したのは確か津川雅彦さんだったと記憶している。私も、親戚に政治家がいたこともあり政治には関心があったので、早速それに参加した。その時はお二人にはお会いできなかったが、一万円を21歳で初めて政治献金した思い出がある。
まさか、それから11年後に永田町という同じ職場で橋本龍太郎先生と一緒に働くことになるとは、その時は考えてもみなかった。昭和49年に私は当時の田中角栄総理から勧められ、参議院選挙に全国区から出馬することになるのだ。
議員になってから、私は河野洋平先輩から自民党文教部会の「特殊教育プロジェクトチーム」主査を引き継ぐことになった。早速、知的障害児や重度の障害児等の施設の現状を勉強しようと視察をした際、同行してくださったのが橋本龍太郎先生だった。
一緒に苦労した日々
視察を終えると、「あなたを見直したよ。派手な芸能界にいた人だから、障害者に対してもどうせ上っ面しか見ないのかと思っていたら、深く掘り下げていたね。これから文教だけでなく厚生関係でも俺の手伝いをしてくれよ」と、先生らしい言い回しで誉めていただいたものだ。
そんなこともあって橋本龍太郎先生のお眼鏡にかなった私は、先生の妹分として厚生分野でも指導を受けながら仕事をしてきた。そこで、まず手をつけたのが国民の健康づくりだった。戦後の食糧が少なかった時代には栄養不良や女性の貧血等が多く、一方高度成長期以降は成人病が増加するといったことから、食生活の偏りをなくし栄養バランスのよい食事を全国に広げようと日本全国で活動しているのがボランティアの女性たち「ヘルスメイト」(食生活改善推進員)である。一人暮らしの高齢者に手作りの食事を届けたり、親子で協力し合って料理教室を開いたり、肥満・糖尿・高血圧などの生活習慣病を予防するための研修をしたり……。松谷満子・日本食生活協会会長の陣頭指揮のもと、今も18万人のボランティアが積極的に活動している。当時、一年生ながら党の社会部会の「食生活改善問題小委員会」の責任者となった私は、はじめは同じ「橋本組」の斎藤十郎先輩と一緒に、次からは一人で大蔵省の主計官と交渉した結果、その活動予算を要求通り確保して自信をつけたものだ。
後に私が党の食育調査会長として手掛けた議員立法の「食育基本法」成立の際、法律の中でこのボランティア活動に触れることができたのは画期的なことで、きっと橋本龍太郎先生も喜んでくださっているに違いないと思っている。
『国及び地方公共団体は、食育の推進に当っては、食生活の改善のための活動その他の食育の推進に関する活動に携わるボランティアが果たしている役割の重要性にかんがみ、これらのボランティアとの連携協力を図りながら、その活動の充実が図られるよう必要な施策を講ずるものとする』(食育基本法第22条第2項)
健康食品のあり方についても橋本龍太郎先生と一緒に苦労したものだ。昭和53年当時、5千億市場になっていた健康食品業界では、自然食品を扱っているところ、食品産業が作ったもの、医薬品会社が販売しているものといったライバルがひしめき、同床異夢の状態だった。誇大広告や虚偽表示など問題点が多く、厚生省内部でも薬務局と公衆衛生局との対立が顕在化していた。そこで、それら全部のグループを統合して健康食品業界の健全な成長を図ろうと、先生の采配の下、私と担当課長そして業界メンバーと議論を重ねて日本健康食品研究協会(現在の(財)日本健康・栄養食品協会)を設立したのだ。
近年、健康食品のあり方委員会で、消費者が製品を使用する時に一段と判断しやすい表示を作る基礎を作っているが、これらも元をたどれば当時の龍太郎先生の尽力あってのものだ。
また、子供たちの保育についても先生は大変力を注いでこられた。当時一部の公立保育所は「丹頂鶴」つまり「頭が赤い」と揶揄されるほど偏向していた。そこで、その偏った運営や指導法を正し、一方で私立保育所も育成しようと、関係者たちを巻き込みながら様々な施策を打ってきたのだ。
昨今、こども園に移行するべく幼保一元化の議論が真っ最中であるが、先生がいらっしゃったら「それは君、違うよ。子供の教育は一番大切なんだ。それぞれ目的が違うのだから、子供なら何でも同じと思うなよ。一本化するのは僕は絶対反対だよ」と、きっと推進論者を相手に議論をたたかわせておられたことだろう。
「これは昭子ちゃんがやれよ!」と龍太郎先生から命じられて行った仕事の中に国立病院の定員問題がある。当時、国立病院では、夜勤につく看護師は二人体制で一ヶ月の夜勤は8日と決まっていたが、実際には夜勤に入るのは一人だけで、深夜には40人以上の患者をみなければならないような過酷な状態だった。そこで、当時の大蔵省の主計官を深夜2時に引っ張り出し、看護師が未熟児に手がかかる実情や入院患者の呼ぶベルにてんてこ舞いの現場を見せて、人員を増やす予算をつけたものだ。
まさに本物の政治家だった
仕事好きで負けず嫌い。ひとつ新しい仕事に入ると徹底的に集中して役人以上に詳しくなる。そのため、勉強しない政治家は評価せず、人の好き嫌いはとても激しかった。党の部会で自分の言いたい事だけ演説してさっさと席を立つような政治家を、龍太郎先生は最も嫌ったものだ。地道に仕事をする政策マンを好んで、スタッフと協力させる能力は、リーダーとしても本当に素晴らしかった。
しかしその性格は時には仇となった。最もそれがはっきりしたのは安倍晋太郎幹事長のもとで橋本龍太郎幹事長代理の時。全国各地から国会議員が地元の地方議員をつれて陳情に来たり、様々な団体の人たちがやってくるのだが、安倍先生はそれらのことは全て龍太郎先生まかせだった。すると先生は、陳情団の話をきちんと聞いた上で、できない案件には「それはとても無理だよ。何故かというと……」と理路整然と理由を述べて、いきなり断ってしまうのだ。陳情に来た人の期待を最初から打ち砕いてしまうので「あれはひどい……」と評判は良くなかったようだ。あまりにもすべての政策に詳しく、調子のよい対応は絶対にしないタイプだったので、ある意味とても損をしたのではと思う。
そんな龍太郎先生は、一緒に仕事をする役人には仲間意識を持つ人たちはとても多かったのだが、政治家同士では本当に心を許せる人がどのくらいいたのだろうかと、亡くなられた今でもそう思う。特にあの時代は派閥内の政争が激しく、足を引っ張ろうとするライバルだらけで気が休まらなかったのでは……と。
素顔の先生はとてもユーモアがあって、官僚や私たちに毒舌を吐きながらも温かく接し、気に入れば本当に親切にしてくれる良き先輩だったのにと、我々後輩たちの間で折につけ思い出話に花が咲くのだ。
大成した陰には久美子夫人の力
「何をポカやっているんだ! 君は日頃あんなに真面目にやってきたのに、台無しじゃないか!」
後にも先にも一度だけのお小言だった。
橋本龍太郎という政治家が大成した陰には久美子夫人の力がとても大きかったと思う。
若い頃からファーストレディーになられた時まで、いつも変わらず、誰にでも同じように、さりげなくそして優しく接しておられる姿には、本当になんて素晴らしい女性だろうと感心してしまう。
余談だが、私の兄は久美子夫人のお兄様の中村雄一さんと学習院で同級生だった。お宅に遊びにうかがうと、可愛らしい久美子さんがいつもお茶を出して下さったそうだ。
私の甥の英樹(当時興銀)と多恵(ファッションデザイナー芦田淳の次女)が結婚する際、仲人を龍太郎先生ご夫妻にしていただいた。披露宴に続いて、若い人たち中心の第二部のパーティーでのスピーチで、出席者一同すべて橋本龍太郎ファンになってしまった。
「本日、若い二人を前にして、君たちは気づいていないかもしれないが、ぼくはとてもうらやましい。なぜならば、両家ともご両親がお元気で揃って二人を見守っておられるからだ。僕は生まれてすぐに母が亡くなり、成人してからも父を亡くした。そのため家内との結婚式では、両親の席に新しい母とその間に生まれた弟が出席してくれていた。その母は本当に素敵な女性で、私をとても可愛がって育ててくれた。今でも実の親子よりよほど仲が良いと自負しているくらいだ」
「ただ、私を産んでくれた母親はどんな人だったんだろうと思うこともあった。父の手により実母の写真は全て焼かれてしまっていたからだ。ところがついこの間、ある方からその女学校時代の写真を送っていただき、私は生まれて初めて実母の顔を見ることができた。なんとも複雑な思いだった」
「二人には、ぜひ双方のご両親と仲良く、そして大切にしてほしい。そして、何十年後に子供の結婚式で、今日のご両親のように誇らしげに子供を送り出せるような家庭をつくってほしい……」
実母と継母、二人のお母様に対する想いを新郎新婦と若き友人たちに本音で語ってくださり、一同に感動を与えられたのだ。その時、テレビや新聞などでしか知らなかった橋本龍太郎の真の人間像を見た人たちは、じーんと胸が熱くなったと口々に語っていたものだ。
いつもお洒落で、スーツからネクタイまですべて選び、靴磨きも人にまかせず全部自分でなさっていたとのこと。また、とても器用で、剣道はもちろん、いろいろと多趣味な方だった。一人でプラモデルに熱中されたかと思うと、貴石を使って素敵なアクセサリーを作られたり、はたまたカメラに夢中になり数々の写真を残され、それぞれが皆、玄人はだしであったのだ。
しかし唯一ゴルフだけはスポーツウーマンの久美子夫人の方がお上手だったそうだ。あの負けず嫌いのせいか、私にはゴルフのお誘いは一度もなかったが……。
素敵な奥様と5人のお子さんに恵まれ、ハンサムで女性ファンもたくさんいらした“龍さま”。今ごろ天国で「オイオイ、のんびりするのもいいもんだね!」とおっしゃりながらも相変わらず財政状況や社会保障のあり方を心配され、また沖縄問題や対ロ外交など橋本型の地道な外交を壊してしまった民主党政権をあきれてみておられるだろう。
でも私は悔しい。
長寿国の日本なのに、何故あんなに急いで早く旅立ってしまわれたのだろうか……。
(※文藝春秋社『61人が書き残す 政治家 橋本龍太郎』より抜粋)